支援学級・転校・不登校…今までを振り返って

こんにちは。中川華です。母になり、もうすぐ15年目になります。

今日は、息子の幼少期の育児大戦争時代から、思春期の関わり方、自分自身のこどもに対する心境の変化について綴らせていただけたらと思います。

子どものことが不安でしょうがない

2才前から、言葉の発言にはとくに問題も感じませんでしたが、行動面はなんだか制御不能。
多動がたえず、スーパーでは常に行方不明。

ベビーカーもカートも気分次第。とにかく手を繋ぎ続けてくれず、親と離れる恐怖より、自分の興味が向いたところにしかいかない。
買い物をしに来たのに、迷子の捜索に時間をとられる。

まったく泣くそぶりもなく、同じことを繰り返す。
自分から親を探すことはなく、だいたい店員さんに確保される始末。

公園に行けばずっーと砂場から動かず、遊具に興味なし。
お友達と約束をしても、相手が熱をだして会えなくなることに理解ができず、ずっーと1日、だだをこね続ける。

気持ちの整理がつかないのか、チカチカした横断歩道の真ん中で突然寝そべる。
病院の会計まちで脱走され、車にひかれそうになるなど、問題行動の嵐でした。

とにかく生活に疲れる。。。そんな毎日でした。

なにかおかしい

育児をしながら、問題行動が続く中で、いくらなんでも『これは普通か?』という、疑問が日に日に増していきました。
当時『多動』という言葉を検索していたところ、発達障がいというキーワードに遭遇します。そこで初めて、発達障がいということを少しずつ探る生活が始まります。

自分では障がいという言葉の重さに涙がでてしまうほどでした。

病院を探す

当時、地方に住んでいたこともあり、発達を相談できる専門病院がなく、自治体の育児相談にいき、状況を説明するも、3才までははっきりとした診断がしずらいと言われてしまいます。

その後、転勤があり、都市に引っ越して、下の子の6ヶ月検診で息子の相談をしたところ、行動に?と感じた保健師さんが専門医に繋げてくれるという流れで病院に辿り着き診断がおります。(当時4才 高機能自閉症)

当時を振り返ると、診断基準は遠城式発達検査というものでした。母子同室で検査部屋に入りますが、先生はひたすら息子の行動観察をしていました。(部屋にはおもちゃや絵本などがあり、子どもの興味、関心、反応の仕方、視線の合わせ方など、こと細かく見ていました。必要以外は母親は黙って見守っているだけという感じでした。)

診断確定後・・・

ちょうど、幼稚園の3年保育を控えた年齢でもあり、幼稚園を探すことも念頭に置きながら、医師に相談したところ、『このままでは幼稚園には行けない。』と言われました。
『集団行動が今のままでは難しいので入園前に訓練的なことが必要に思う。』と。
『ここはプロに任せて、お母さんは少し休んだほうがよい。』といわれてしまいました。

プロって!?と思いました。医師からは、デイサービスの話をされ、詳しくは区役所に行って下さいといわれ、そこからは幼稚園ではなく、幼稚園に行けるようになるための訓練先を探す行動を開始します。

デイサービスに週2日

区役所に足を運び、1冊の冊子を渡されました。

『ここにはサービスを受けられる施設がすべて載っています。定員数、お子さんの程度の具合や、カリキュラム、送迎の有無、食事の有無など様々なので、見学に行くなどしてお子さんに合うところを親御さんが決めてください。』とのこと。

100件近くはあったと思いますが、電話したり、実際に見学しにいったりして、やっと1件巡り合うことができました。
そこの施設では息子の行動がすぐ目に留まったのか、

『すぐ、お預かりできるようにします。幼稚園に行かせましょう!!』

と、とても親身に療育してくださいました。
とにかく一日のルーティーンをカードにしてくれたり、自然に触れさせてくれたり、施設で手作りの給食もだしてくれたりと、デイに通ってからはメキメキと接しやすくなってきました。

2年保育で入園

本人は幼稚園にはあまり前向きではありませんでしたが、小学校のこともあるので、親の意向で入園させました。

幼稚園選びは、迷うところではありましたが、とにかくいっぱい体を動かして、小さすぎない、ある程度人数がいるところを選びました。

バス停に園バスが止まっても『突然、行かない!!』と乗車拒否し、近くの公園で気持ちを切り替えさせてから、後から車で送っていくなんてこともしばしばありました。
絵本には興味を示さず、図鑑は好きでよく眺めていました。

この頃は、多動より、気持ちの切り替えが上手にできず、乱暴さが出てしまうので、デイサービスも併用しながら、本人なりに気持ちの切り替え法を習得していったようです。
(園では静かな場所で落ち着かせてもらえるように配慮してもらっていました)。

そして年長に上がるタイミングで3度目の引っ越しを迎えます。

転園ですべてがボロボロに

札幌から大阪に移り住むことになったのですが、それまでの訓練はどこに・・・??。環境が変わるとは恐ろしい。。と目の当たりにしました。

覚悟はしていましたが、予想をはるかに超える展開に。
最初の数か月は今までとはルールがかわり、混乱している様子。以前の幼稚園は、教室ではオルガンだったのですが、ピアノにかわり、耳を塞ぐようになりました。

制服も嫌がり、みんなと同じ体操も全然違う曲のせいか、離れて行動するように。先生のスキを狙って脱走しかけることも。しばらく下の子を連れ、お弁当をもって親子登園の日々でした。

小学校は支援学級に在籍

幼稚園の先生にも相談し、当時在籍する予定の小学校の先生が園での息子の様子をみに来てくださり、実際に入学は普通級、支援級どちらが良いのか?という相談がじっくりできました。

基本的には、気になることがあっても、親の決断になりますが、私は息子が安定的に過ごせるのはどちらかを知りたかったので、相談できたことはとてもよかったです。

最終的には,加配の先生がいたほうが、息子にとって、できることのチャンスが増えるとおっしゃっていただき、支援学級在籍になりました。
ほとんど通級で週1.2回を支援級クラスのカリキュラムを過ごす程度で、お友達関係も良好でした。

3年生に進級したころから、『もう、普通のクラスで大丈夫!!』と自分から支援学級を抜けたいと意思表示しました。

転校が続く

学校生活が安定したころ、4年生でまた引っ越すことになりました。

先に、単身赴任をしていた主人のところをへ、子どもたちと相談して『行く』という決断をしました。
大阪から広島へ。

結局1年過ごしたあと、主人が転勤になり、5年生で千葉へ移り住みます。
いずれも普通級ですごし、環境の変化で一度苦労したので、かなり慎重に考えた引っ越しでしたが、わりとスムーズで、ちゃんと成長しているんだなっとホッとした記憶があります。

もともと、学校生活には積極的ではなかったですが、友達とは良好に過ごせていたので、それだけがすくいでした。

ただ、5年生から原因不明の頭痛が頻発するようになりました。検査をするも異常なし。また、親として悶々とした悩みが浮上しました。

中学で不登校に

小学校まではなんとか過ごせていましたが、忙しいカリキュラムについてゆくのがしんどくなってしまったのか、入学して2か月くらいたったころから、朝、起きれなくなり、学校に足が向かなくなりました。
鬱っぽい症状もあらわれました。

後で検査したのですが睡眠時無呼吸も併発していました。
先生が自宅訪問したり、夕方、少しの時間登校して面談したり。親としては不安が募るばかり。
テストの評価、内申点、高校受験はどうするのか?母親だけが一人で毎日イライラして、険悪な雰囲気が漂っていました。自分の気持ちが整理できず、しんどい日々が続きます。

親自身がこどもを変えることはできない。自分が変わるしかない。そして栄養面は大切。

別人格の子どもに、

「こうあるべき、そうしなければならない。」

という母親意見は、まったく通用しませんでした。

学習の必要性、自分が学びたいこと、社会に対しての見方が違う息子とはなかなか話があいませんでした。
母親は、もう、真剣に学校に行け!という気持ちはありながらも、言葉に出すことをやめました。

自分は仕事に没頭し、平日の休みの日も家事を捨て、カフェで過ごしたり、図書館へいったり、顔を突き合わせない時間を自分から作りました。
唯一、息子は料理が好きだったこともあり、夕食をお願いしたり、日中はあえて食事の準備をせず、学校に行っていない間も自分で自炊をさせました。

その甲斐あってか、料理はだいぶこなせるようになり、進学先も調理の道へ進みたいと希望が持てるまでになりました。
障がいは人につくのではなく、社会につくといわれたことがあり、自分ルールがとても強い息子は、社会を遠い目で見ているな~と幼少期からつくづく感じていました。

気になっていた頭痛問題も、小麦製品をぐっと減らしたこと、白米から玄米にかえたこと、よい油を摂ること、サプリメントで補うなどして、栄養面の見直しをしたことで、激減しました。

幼少期は発達障がいは治らない、関わり方をとにかく学ぶようにSSTなどでも指導されましたが、栄養面を見直すことは万人に共通していることだと思っています。
同じような悩みを持ちつつ日々の育児をなさっている方々へ少しでも励みになれば幸いです。

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